白髪で有名なあずま修平さんは、2025年夏の参議院選挙(大阪選挙区)に「しがらみゼロ」「主権者の力」を旗印に、政党に属さず無所属で出馬されており、永田町の従来型政治を変え、市民一人一人が主役になれる政治を目指している注目の一人です。
あずま修平さんは大阪の元四條畷市長を務められた経験があり、当時最年少市長で話題になりました。
今回はそんなあずま修平さんの学歴と経歴が気になりましたので調査致しました!
最後まで見て行ってください!
あずま修平wiki風学歴経歴!
あずま修平さんは若くして大阪の四条畷市長になられ、当時は最年少市長と話題になりました。
いったいどんな道を歩み、現在の参院選に出馬までたどり着いたのでしょうか?
順番に見て行きましょう!
あずま修平のプロフィール

- 名前:東 修平(あずま しゅうへい)
- 生年月日:1988年10月3日(36歳)
- 出身地:大阪府四條畷市
- 趣味:読書、パスタ作り、マンドリン演奏
- 最終学歴:京都大学大学院修士課程(原子核工学専攻)
- 主な経歴:外務省→野村総研インド→四條畷市長
あずま修平の幼少期
あずまさんは「私はこの四條畷で生まれ、育ちました」という地元への強い誇りやを持っておられ,幼少期から「地域で何か役立てる存在になりたい」といった志や好奇心を持っていたことが後年の回想で明かされています。
「誰かの役に立ちたい。そう思った時、どのような人の顔が思い浮かぶか。私にとってすごく重要なことなんです。多くの仲間たち、その家族、お世話になった方々が、この四條畷には暮らしています。もちろん、私の家族もいる。これからもずっとみんなが幸せに暮らせる町にしたい。顔の見える人たちの役に立っていきたいんです」 引用元:AMBI
また「後々、四條畷に必ず恩返しをしたい」という思いを持つようになった土台も、幼い頃の経験や郷里への強い愛着があるとあずまさんは繰り返し語っておられます。

〒575-0003 大阪府四條畷市岡山東5丁目2−40
両親は「勉強しなさい」と強制するのではなく、本人が自然とやる気になるような声かけをしてくれる人たちで、例えば、テストで98点を取った時には、まず褒めてくれながらも「あと2点だったね」と優しく言って、東さん自身が「次はもっと頑張ろう」と思えるように工夫してくれていたそうで素晴らしいい教育ですね!
このような親の接し方が、後の東さんの自主性や向上心を育てる大切な土台になったのでしょう!
小学校4年生の時には、クラスで学級委員選挙が行われ、当時の男子児童の多くが「自分や!」と元気よく手を挙げて立候補する中、あずまさんも「楽しそう」という軽い気持ちで参加しました。
最初は深く考えていなかったのですが、当選して学級委員という役割を与えられた時、初めて「責任感」というものが芽生え、「学級委員としての役目をちゃんと果たそう」という自覚が生まれとの事です。
小学校の頃から、あずまさんは「みんなが笑顔でいられる調和あるクラス作り」を考え、クラスのみんなが仲良く、楽しく過ごせるように気を配る子どもで、この経験は今のあずまさんの活動に影響しているのではないでしょうか。
この「仲間と調和を重んじる姿勢」は、後に市長として多くの人と協力しながら街づくりを進める時の大切な基盤になった事でしょう!
あずま修平の中学校時代

〒575-0003 大阪府四條畷市岡山東5丁目2−10

小学校の時から続けていた学級委員の経験や、クラスメイトとのいろいろな話し合いを通して、人を大切にしながら物事を進める力や、みんなが仲良くできるように気を配る優しい心が育っていきました。
また、思春期という難しい年頃でもあったこの時期は、「自分って何が得意なんだろう」「本当にやりたいことって何だろう」と真剣に考える時間でもありました。
勉強や部活動の詳しい内容は分かりませんが、自分で目標を決めて、それに向かって計画を立てながらコツコツと頑張る力がどんどん強くなっていったそうです。
高校進学については地元の四條畷高校を目指して一生懸命勉強していましたが、ただ勉強ばかりするのではなく、友達との関係や心と体のバランスも大切にするタイプだったといいます。
そして何より、家族の温かい支えがあったことが彼の成長にとって本当に大きな力となりました。「君らしく前向きに頑張りなさい、新しいことにもどんどん挑戦していいよ」と見守ってくれる家族がいたからこそ、安心して自分の道を歩むことができたのでしょう。
あずま修平の高校時代

〒575-0035 大阪府四條畷市雁屋北町1−1

東修平さんの高校時代は、四條畷高校という大阪でも歴史ある名門校で過ごしました。
この学校は多くの優秀な人材を社会に送り出している伝統校で、東さんもそこで勉強に一生懸命取り組み、特に物理や数学、科学といった理系の分野にとても興味を持つようになりました。
高校生活で特に印象的だったのは、東さんの「縁の下の力持ち」的な性格でした。
文化祭や体育祭などの学校行事では、舞台に立って目立つ役割ではなく、裏方として運営やサポートの仕事を進んでやっていたのです。
みんなが協力して一つの目標を達成していく過程に、とても大きなやりがいを感じていたといいます。
この頃から「自分には何ができるんだろう」と真剣に考えるようになり、地元を離れてもっと広い世界で学んでみたいという気持ちが強くなっていきました。
そんな想いが京都大学工学部への進学という目標につながり、勉強にもより一層力を入れるようになったのです。
いろいろな個性を持った同級生たちと一緒に過ごす中で、東さんは人と人との間を上手に取り持ったり、みんなが協力しやすい環境を作ったりする力をどんどん身につけていきました。
この「人を支える」「現場で実際に動く」という経験は、後に市長になってからもとても重要な力として発揮されることになります。
東さん自身が振り返ってみると、高校時代は将来について具体的な計画を立てるというよりも、「今目の前にあることに一生懸命取り組んで、その中から自分の得意なことや本当に興味があることを見つけていった時期」だったそうです。
あずま修平の大学・大学院時代

〒606-8317 京都府京都市左京区吉田本町

東修平さんの大学時代は、京都大学工学部物理工学科からスタートしました。
実は中学生の頃に科学雑誌の『Newton』を読んで、未来のエネルギーとしての原子力にとても興味を持ったことがきっかけで、「核融合炉の研究をしたい」という夢を抱いて京都大学に進学したのです。
特に原子核工学という分野を専攻し、エネルギーの可能性について深く学んでいました。
大学を卒業した後は、さらに専門的な研究を続けるために京都大学大学院の工学研究科に進みました。ここでも原子核工学を専攻し、核融合やエネルギーの平和利用、そして安全性について研究と実験に熱心に取り組んでいました。科学技術の最先端で学ぶ充実した日々を送っていたのです。
しかし、大学院在学中の2011年に東日本大震災が発生し、福島第一原発事故という大きな出来事を目の当たりにしました。
この時、東さんは「科学の力だけでは社会を動かすことはできない」ということを強く実感したのです。
そこで考え方が大きく変わり、「科学の知識を持ちながら、同時に社会の仕組みそのものを変えていく仕事がしたい」と思うようになりました。
この思いが、国家公務員という新しい進路を選ぶきっかけとなったのです。
大学・大学院時代の東さんは、勉強だけに集中するのではなく、いろいろな分野の学生や留学生、社会人の方々とも積極的に交流していました。
この経験によって、物事を様々な角度から見る力が身についたのです。また、活動的な性格を活かして、研究以外でも自主的なプロジェクトやボランティア活動、社会の問題に取り組む活動にも参加していました。
そして2014年に修士号を取得した東さんは、外務省に入省することになりました。工学・原子核という専門的な知識と、社会の課題を解決したいという強い気持ちが組み合わさって、外交や国の政策に関わる公務員としての新しい人生が始まったのです。
あずま修平の大学卒業後の経歴
東修平さんは京都大学大学院で原子核工学の勉強を終えた後、2014年に国家公務員試験に合格して外務省に入りました。
最初に配属されたのは経済連携課という部署で、TPP(環太平洋経済連携協定)をはじめとする自由貿易協定の交渉を担当することになりました。ここで各国との実際の交渉術や、みんなが納得できる合意を作り上げる方法を学んだのです。
外務省で働いているとき、上司から「100対0で完全勝利するより、51対49で勝つ方が外交では良い結果を生む」という言葉を聞いて、とても印象に残ったそうです。
相手のことも考えながら合意を作ることの大切さを実感したのです。
しかし一方で、「国民の顔が見えない政策決定」に戸惑いを感じ、「自分は一体誰のために働いているんだろう」と悩む時期もありました。
そんな中、東さんの人生を大きく変える出来事が起こりました。
直属の上司と父親が相次いで亡くなったのです。どちらも40代で第一線で活躍していた人たちで、この経験から「人生には締め切りがある」ということを強く意識するようになりました。
そして「自分の人生をどのように使うべきか」を真剣に考え直すきっかけとなったのです。
「もっと社会に近い立場で、現実の課題を解決したい」という思いが強くなった東さんは、外務省を退職することを決めました。
その後、コンサルティング会社である野村総合研究所に転職し、設立されたばかりのインド法人で働くことになりました。ここでは日本の自動車メーカーの現地戦略など、グローバルな事業を支援する仕事に携わりました。
インドでは、文化も言語も全く違うメンバーと一緒に働く中で、「理想と現実のギャップ」を身をもって体験しました。机の上で考えた計画を実際の現場でどうやって実現するかということを、徹底的に学ぶ貴重な経験となったのです。
2016年、父親が亡くなったことをきっかけに一時帰国した東さんは、地元の四條畷市長選への立候補を決意しました。選挙の経験もなく、政治家の知り合いも全くいない中での挑戦でした。
インドのアパートで夜遅くまで選挙に関する本や情報を読んで勉強し、着実に知識を積み上げていきました。
帰国後、まず父の遺影に選挙への挑戦を報告し、母親にはイオンのフードコートで立候補の決意を伝えました。母親は「好きにしたらいい」と温かく背中を押してくれたそうです。
高校の先輩で議員をしている方に話を聞いたり、市政の現状や課題について徹底的に調べたりと、準備を重ねました。
そして2017年1月、東修平さんは28歳という若さで全国最年少の市長として、大阪府四條畷市長に初当選を果たしました。
市長になってからは、市役所の改革やデジタル技術を使った行政の推進、公募による副市長の採用、若手や民間出身者の登用など、全国から注目される政策を次々と実行しています。
「現場の声をしっかり聞く」ことや「しがらみに縛られない公平な市政」を大切にしながら、市民のための政治を続けているのです。
参議院選挙無所属で出馬の白髪元最年少市長!
東修平さんは四條畷市長としての8年間の経験を経て、今度は国の政治の世界に挑戦することを決めました。その際に選んだのは「完全無所属」という道でした。
これは、どの政党からも、どんな団体からも支援を受けずに選挙に臨むということです。「永田町のしがらみ政治を断つ」「主権者が主役の政治」を掲げて、市民の声を国政へまっすぐ届けることを最大の目標としています。
東さんの選挙戦で最も特徴的なのは、徹底した現場主義です。
四條畷市長として8年間、市民の悩みや現場の課題と真正面から向き合ってきた経験を活かして、「あなたの声が国会へ届く政治」を実現したいと考えています。
実際に選挙期間中は大阪府内の43すべての市町村で対話集会を開き、市民や現場の声を聞いて、それを政策提案につなげる活動を続けています。
東さんのスローガンは「壁を、壊せ。」です。これは、国民と国会、国民と政策の間にある「高い壁」を打破して、情報や意見、政策決定の流れを誰にでも分かりやすく開かれたものにしたいという思いが込められています。
具体的な政策では、消費税や子育て支援、高齢者支援、働く世代の将来への不安、地方と都市の格差といった問題に取り組み、「分断なく一人ひとりに向き合う政治」を目指しています。
選挙活動では、現場で実際に見聞きした生の声を起点にして、法律を変えたり新しい制度を提案したりすることを重視しています。また、政党の枠を超えた議論にも柔軟に参加する姿勢を示しています。
情報発信の方法も工夫しており、XやYouTubeなどのSNSを積極的に活用して、自分の現場感覚や対話集会の様子、政策についての考えを分かりやすく伝えています。
一方で、従来のポスター掲示や個人演説会も丁寧に行い、若い世代から高齢の方まで、すべての年代の人に届くような選挙戦を展開しています。
他の候補者との大きな違いは、政党や団体の色を全面に出すのではなく、「頼る組織も資金もない中で、一人で市民の声を集め続けてきた」という点です。
8年間の行政経験を持ちながらも、国政では「完全無所属」の新人として「現場主義の徹底」と「既存政治への挑戦」を掲げているところが、東修平さんの大きな特徴となっているのです。
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