2025年6月7日から、照英さんが日本全国を旅して様々なジャンルの体験にチャレンジする新番組「照英が行く!日本全国チャレンジの旅」が放送開始され話題となっています。
そんな照英さんの住まいは高級住宅地の世田谷区で一軒家のマイホームを建てておられ凄すぎますね!
妻と子供達と愛犬テンちゃんと暮らす住まいはいったいどんな感じなのでしょうか?
また照英さんがどのような家に住まれていたのかマイホームを建てるまでの道のりも調査致しましたので最後まで見て行って下さい!
照英の住まいは世田谷区で凄い!

最初は建売住宅を買って住んでいたのですが、14年ほど経って家族が増えて手狭になったため、新しく家を建て直すことにしました。
新しいお家を建てるときは、奥さんの過ごしやすさや家事のしやすさを一番に考えて設計したそうです。
家族みんなが集まるリビングを特に大切にしていて、子どもたちそれぞれの部屋もちゃんと作りました。
しかし、照英さん自身の個人の部屋はないそうで、いつもリビングで家族と一緒に過ごしているとのこと。
ただし、趣味の釣り道具をしまっておく専用の部屋はあるようですね。
そして休日は自宅でバーベキューや家庭菜園をされていてとても家族の事を大切にされている様子が、照英さんのオフィシャルブログからみられますね!


照英さんの家族は、奥さんの阿部和加子さん(元フリーアナウンサー)、3人の子どもたち(長男、長女、次女)、そして愛犬のテンちゃん(ジャックラッセルテリアという犬種)の6人家族です。
世田谷区は子育てに良い環境が整っていて、公園などの自然も多いエリアです。
照英さんも家族のことを考えて、この場所を選んだのでしょうね。
妻子供や愛犬のために建てたマイホームまでの道のり!

照英さんが「夢のマイホーム」にたどり着くまでの道のりはどうだったのでしょうか?
調査致しましたの照英さんの実家暮らしから順に見て行きましょう!
実家は4畳半

小学校・中学校・高校まですべて自宅から自転車通学で通ったとの事で、家族は両親、姉、犬1匹の4人+1匹家族です。
質素でコンパクトな住まいながら、家族と共に過ごす時間やぬくもりが「家」という空間への想いの源になりました。
家自体は小さな建売住宅で、照英さんの部屋は「4畳半」の広さ。少年野球や高校のやり投げをしていた頃も、この部屋で練習の研究やトレーニングを行いました。
今でも実家に帰ると、当時の「達成感」や「悔しい思い」、小さいころの空気感や家の温かさがそのまま感じられる場所だと語っています。
部屋はとても狭かったものの、当時は「十分な広さ」と感じて暮らしていたそうです。
この狭い部屋から、彼は家族との絆や働くことの大切さを学び、いつか自分の理想の家を持つ夢を育んでいきました。
東海大学の療生活

この寮は陸上部のやり投げや砲丸投げなどをする部員、約40人が一緒に住む寮でした。
駅から大学に向かう坂の途中にあったのですが、築50年以上の古い木造の建物で、なんと部屋が傾いていたそうです。
缶を置くと転がってしまうし、寝るときは頭を高い方に向けないと血が上ってしまうという、今考えるとちょっと信じられないような状況でした。
部屋は一人一人4畳半の個室で、簡単なキッチンは付いていましたが、お風呂やトイレは共同でした。
トイレは2部屋に1つしかなく、ふすまを開けると押し入れのような感じで設置されていたというから驚きです。
土日は学校の食堂がお休みなので、みんなでお買い物に行って大量のお肉を買ってきて、みんなでワイワイ焼いて食べたり、部屋に集まって「桃太郎電鉄」というゲームを楽しんだりしていました。
4年生になると、こっそり恋人を部屋に招いたりする青春らしいエピソードもあったようです。
家賃は食費も込みで月32,000円という格安でした。当時は「こんなオンボロの建物に住まわされて…」なんて文句を言っていたそうですが、今振り返るととても安かったなあと思っているそうです。
照英さんは「プライベートな時間は少なかったけれど、今思い返すと青春で一番の思い出」と話しています。
家賃6万円から30万円のマンションへ!

当時のことをこんな風に話されています。↓
「財布に500円しかないこともザラな日々、交通費も惜しいので自転車でがむしゃらにオーディションに出向いてました。」
この2年後少し仕事も増え、一階がスーパーの家賃10万円のワンルームへ住まれました。
さらに2年後には役者としての収入が安定し、同じエリアの23万円のマンションに引っ越されて順調にステップアップされていますね!
そしてまた2年後に新築の家賃30万円のマンションに住み、便利さや快適さを享受しつつも「どこか仮住まいの感覚」が拭えなかったそうです。
だからこそ、家族にとって本当に落ち着ける場所、「帰る家」をいつか手にしたいという気持ちが強くなっていきました。
建売住宅での生活

14年間、ここで家族と暮らし、日々を楽しみましたが、子どもたちが成長するにつれて「手狭さ」や「住まいへのこだわり」が次第に強く感じられるようになりました。
この頃仕事の考え方を改めたと話されています。↓
「時代劇では撮影所がある京都でホテル暮らし。下着を洗濯する余裕もないし、自宅では妻が一人で子育てをしている。たまに帰宅すると妻はとても忙しく、妻の言葉にちゃんと応えることもできない。何のための結婚。何のための家族なのか。」
こんな風に考えられたとの事で、俳優業を33歳の時に辞める決断をされました。
そしめ建売住宅には限界もあり、「自分と家族の理想をより反映できる家」に対する憧れが生まれます。
夢のマイホーム!
照英さんは「妻が家事をしやすく、家族がリビングで自然と集まるように」「子どもたち一人一人の部屋」「趣味の釣り道具をしまう収納スペース」など、家族中心で設計。
特に自身の個室はあえて作らず、いつでも家族と共に過ごせるリビングで暮らすことを選びました。
「家族にとって家は宝箱」という照英さんの言葉通り、家づくりでは家族それぞれが安心できる場所を大切にしています。
世田谷区を選んだのも、子育て環境や自然の豊かさを重視した結果です。
家づくりの軌跡は、実家の小さな部屋での家族愛から始まり、都市生活の仮住まいを経て、自分たちの暮らし方や夢を一つずつ反映しながら、「家=宝箱」という想いを叶えてきたエピソードとして語られています。
コメント